英学塾。
「致遠館(ちえんかん)」。
1865年(慶応元年)に、佐賀藩によって英語教育を目的に開設。
校長に、オランダ系アメリカ人のフルベッキ。
学監は、副島種臣 。
教師に、大隈重信、小出千之助、石丸虎五郎、馬渡八郎など。
グイド・フルベッキ(1830~1898)
Guido Herman Fridolin Verbeck
オランダ出身、後に、アメリカ合衆国に移民。
日本に派遣され活躍した宣教師、教育者、法学者、神学者。
副島種臣(1828~1905)
そえじま たねおみ
佐賀藩士、官僚、政治家。父の南濠は藩校「弘道館」の国学者。
書家としても有名で、号に「蒼海(そうかい)」、「一々学人(いちいちがくじん)」。
大隈重信(1838~1922)
おおくま しげのぶ
佐賀藩士、政治家、教育者。
父の信保は、砲術長である石火矢頭人(いしびやとうにん)を務めた。
早稲田大学の初代総長。
▲ 致遠館跡 石碑
早稲田大学から、この土地を所有している宮島商事へと記念碑建立の申し出。
佐賀県産の白御影石。
正面の碑銘である「致遠館跡」の字は、早稲田大学総長の奥島孝康(2002年当時)。
現在は、ミヤジマ五島町パーキングという名前の立体駐車場。
訪れた長崎滞在二日目も、生憎なのか、音楽好きに対する図らいか。
前日と同様に雨。
「長崎は今日も雨だった」
のでした。
▲ 致遠館跡の石碑と隣には、解説の案内版
校舎は、2間に3間の倉造の建物。
学生数は、開校時には30人程だったが、後に100人以上。
横井小楠の甥や岩倉具視の子も在籍。
ここで、大隈重信は教師として指導し、また経営にもあたり
後の早稲田大学に、その経験が活かされる事となる。
▲ 致遠館の説明 案内板
写真もあり、何だか勇ましい青年たちのオーラが感じられます。
英語以外にも、政治、経済の講義が開かれていたとか。
大隈重信と副島種臣は、ここで生徒たちに教えながら
校長のフルベッキからは、英語や聖書について学んだとの事。
偉大な方々は、常に学び続けているんですね。
2015年 4月
【リンク】
宮島醤油:致遠館と宮島商店長崎支店
「致遠館(ちえんかん)」。
1865年(慶応元年)に、佐賀藩によって英語教育を目的に開設。
校長に、オランダ系アメリカ人のフルベッキ。
学監は、副島種臣 。
教師に、大隈重信、小出千之助、石丸虎五郎、馬渡八郎など。
グイド・フルベッキ(1830~1898)
Guido Herman Fridolin Verbeck
オランダ出身、後に、アメリカ合衆国に移民。
日本に派遣され活躍した宣教師、教育者、法学者、神学者。
副島種臣(1828~1905)
そえじま たねおみ
佐賀藩士、官僚、政治家。父の南濠は藩校「弘道館」の国学者。
書家としても有名で、号に「蒼海(そうかい)」、「一々学人(いちいちがくじん)」。
大隈重信(1838~1922)
おおくま しげのぶ
佐賀藩士、政治家、教育者。
父の信保は、砲術長である石火矢頭人(いしびやとうにん)を務めた。
早稲田大学の初代総長。
▲ 致遠館跡 石碑
早稲田大学から、この土地を所有している宮島商事へと記念碑建立の申し出。
佐賀県産の白御影石。
正面の碑銘である「致遠館跡」の字は、早稲田大学総長の奥島孝康(2002年当時)。
現在は、ミヤジマ五島町パーキングという名前の立体駐車場。
訪れた長崎滞在二日目も、生憎なのか、音楽好きに対する図らいか。
前日と同様に雨。
「長崎は今日も雨だった」
のでした。
▲ 致遠館跡の石碑と隣には、解説の案内版
校舎は、2間に3間の倉造の建物。
学生数は、開校時には30人程だったが、後に100人以上。
横井小楠の甥や岩倉具視の子も在籍。
ここで、大隈重信は教師として指導し、また経営にもあたり
後の早稲田大学に、その経験が活かされる事となる。
▲ 致遠館の説明 案内板
写真もあり、何だか勇ましい青年たちのオーラが感じられます。
英語以外にも、政治、経済の講義が開かれていたとか。
大隈重信と副島種臣は、ここで生徒たちに教えながら
校長のフルベッキからは、英語や聖書について学んだとの事。
偉大な方々は、常に学び続けているんですね。
2015年 4月
【リンク】
宮島醤油:致遠館と宮島商店長崎支店
コメント